今、『新聞記者』という映画が問いかけること【ネタばれあり】

今回のアカデミー賞で作品賞、主演女優賞、主演男優賞の三冠を達成した映画『新聞記者』。

色々な意見がある中で、私は「アカデミー賞よくやった!」という意見に賛成である。このタイミングで、政府批判と言っていい映画が作品賞を取り、韓国の女優さんが最優秀主演女優賞に輝いたことには大きな意味がある。

むしろ、そのことにこそ意味があると私は思う。『新聞記者』という映画が作られ、放映され、日本アカデミー賞に輝いた、ということに意味があるのだ。

映画自体も面白いのだけど、『パラサイト』のようなクスッと笑えるシーンもないし、大どんでん返しみたいな展開もない。似ていると話題の『ペンタゴンペーパーズ』のように新聞社が国の大スキャンダルに臨むドキドキハラハラ爽快感もないし、主人公に皮肉な設定を持たせて面白くしたりもしていない(キャラ設定はド定番と言っていい)。さらには大衆が喜びそうなお色気シーン(←死後?)も無い。

面白いのはところどころで「あの事件か」と現実とリンクする部分があるのと、「これを描いたのすごいな!」とやはり何度も思ってしまうのと、本田翼が意外とヒューマンの空気を醸し出していて安心すること(対比がよかった)ことと、やはり主演2人の演技力に引き込まれることくらいで、ストーリーは淡々と進んでいく。

だけどこの映画はそれでいいのだと思った。淡々としていていい。

なぜなら、先に言ったようにこの映画が作られたことに意味があるから。

そしてこの映画が今、このタイミングで日本アカデミー賞を取ったことにはもっと意味がある。アカデミー賞会員の皆さん、さすが芸術家である。今、まともにこの国に問題提起することが出来るのは芸術家くらいじゃないか。

お恥ずかしいことに、私はこれまで政治にほとんど関心がなかった。よく分からなかったから、考えようもなかった。だけど昨今のニュースを見ていて、さすがに疑問を覚えるようになった。

私のような人は多いのではないか?日本は長いこと平和ボケしてしまって、自分のことばかりで国のことなんて考える余裕もなかった。勝手にいい感じにやってくれ、というスタンスだ。

そんな中でSNSをはじめとして、情報はあふれだした。それも、質の悪い情報があふれにあふれている。私たちは情報の中に埋もれて息もできない。

今まで私たちは、国が決めたことに疑いもなく従ってきた。そして今は、ニュースだのSNSだの、どこかの知らない人が書いたデマだのを真に受けている。

これでいいのか? 君の考えは?

「君はどう思う?」

私は『新聞記者』という映画から、このメッセージを受け取った。

単なる安部政権批判の映画ではないと思う。この映画は語りかけている。「俺はこう思うけど、君はどう思う?」

私たちに意思はあっただろうか?ここで言う意思とは、感情のことではない。

政府を批判する人ならいくらでもいる。SNSを中心に、掃いて捨てるほどあふれている。だけど、意思の表明と単なる感情任せの暴言とは全く違う。

その違いは何かと言うと、「自分の考えを表現すること」に重きを置くかどうかである。

頭がいいと思われたい、優越感に浸りたい、いいねが欲しい、週刊誌を売りたい、視聴率を上げたい、そんな思いが見え隠れする意見は信用できない。どんな気持ちよりも、自分の考えを表明したいという気持ちが勝った時、それは立派な意見である。

記憶に新しい「表現の不自由展」の中止。今思えば、やるべきだった。そこにどんな展示がされようと、それは個人の考えの表現でしかない。つまり、「私はこう思うけど、君はどう思う?」という問いかけである。

今の日本人の多く(もちろん私を含む)には、この問いかけに答える力がない。長いこと、長いこと、与えられた情報をそのまま受け入れすぎた。だから、「表現の不自由展」も中止にせざるを得なかった。

もしも私たちに、与えられた情報をただの情報の1つとして処理し、自分の頭で考えられる知識と余裕があればすべては変わる。

「なんてことを言うんだ!」「バカか!」ではない意見を持つことが出来ればすべて変わる。

情報があふれかえっている今、私たちは情報を選ぶ力を身につけなければいけない。

芸術家というものは、いつも体の底から湧き出てくる音の無い叫びのようなものを、どうにか形にしたいともがいている。彼ら、彼女らはこの世界のことを深く考え、考え抜き、形にした上で、決して強要するわけではなく、1つの表現として世に発表する。

くだらない自己主張(俺すごいだろ、的なこと)は作品の邪魔であるから、SNSのコメントのようなくだらない意見は生まれない。正しいか間違っているかという問題ではなく、よく考えもしないまま持った浅いメッセージを表現するための作品はまず無い。なぜなら作品を作るということはとても大変なことだから。

私たちはその1つの表現に対して、自分の意見で向かい合える人間にならなくてはならない。

平和ボケして政治に無関心だった自分を恥じるタイミングでもある。(←自分のことを言っています)

『新聞記者』は単なる政権批判ではない。1つの表現である。そして作品がアカデミー賞に輝いた今、私たちは問いかけられている。

「君はどう思う?」

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